コスモ・ネットレ ブログ「徒然なるままに」
2024年2月 9日五代友厚
大阪ネットサポートセンター 井上
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惚れ惚れする立ち姿。ディーン・フジオカではございません。
2月12日は、五代 友厚 (ごだい・ともあつ)の誕生日。「五代はんは、大阪の恩人やぁ」。
薩摩、鹿児島生まれ。薩摩藩士、英国への派遣留学生団の副使として欧州視察を行うなど世界情勢を意識した開国派。
明治政府(明治元年)、外国事務局判事として大阪在勤になったことが大阪とかかわる第一歩となりました。
江戸時代。年貢米の取引でにぎわっていた大阪ですが、幕府がなくなり大名貸しの借金棒引きで大阪商人は打撃を受け、大阪商業は衰退していました。
五代友厚は、大阪港の浚渫工事インフラ整備に尽力。貿易・経済力が集まり、大阪に復興の兆しが見え始めました。
明治2年、横浜に異動になって2か月後に官を辞し、実業家として大阪の経済を盛り上げていくことを決意し、大阪経済の発展、大阪産業の近代化に貢献。大阪通商会社・大阪貿易会社を設立。銀行分析所を設立します。
以後の活躍も凄まじく、
明治3年、鉱山事業に着手。二度目の妻・豊子(旧姓・萱野)と結婚したのはこの頃。
明治6年、鉱山経営の統括機関・弘成館を設立し、鉱山王になります。
明治9年、鴻池善右衛門や三井元之助など財界の長を共同経営者として、堂島米商会所を開業。他にも藍の製造工場・朝陽館を設立。
明治11年、大阪株式取引所、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所/初代会頭)を設立。明治13年、大阪商業講習所(のちの大阪市立大学)、東京馬車鉄道を設立。
明治14年、大阪製銅会社(のちの住友金属工業)、関西貿易会社を設立。
明治17年、大阪商船開業(商船三井)、阪堺鉄道、神戸桟橋会社を設立。
明治18年9月25日、東京築地で逝去。49歳の若さでした。死因は糖尿病。死を目前に大阪に籍を移しており、遺言で大阪に埋葬されました。
『 地位か名誉か金か、いや大切なのは目的だ 』忙しく飛び回る五代友厚を支え続けた妻・五代豊子。友厚が残した100億円ともいわれる借金を遺族ともに約18年かけて整理されました。
五代友厚が亡くなってから、139年経ちますが、現在、大阪の街を眺めながら「大切な目的」、「世界経済の発展と資産形成・資産運用」を思惟しているもしれません。
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