コスモ・ネットレ ブログ「徒然なるままに」
2023年5月18日与謝野晶子歌碑公園
ネット取引統括部長 山形 光
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今日は与謝野晶子が65歳の一生を終えた日。
1904年9月、日露戦争に従軍していた弟を嘆いた「君死にたまふことなかれ」はあまりにも有名。与謝野晶子の一生を失礼ながら簡単にまとめると、
1878年(明治11年)堺の老舗和菓子屋で三女として生まれた鳳志やう。
古典に親しみ16歳の時には文芸倶楽部に鳳晶子の名前で投稿した和歌が載ります。
1900年、22歳の時に堺の浜寺公園の旅館で行われた歌会で、会を主催した5歳上の与謝野鉄幹と不倫関係に。
鉄幹が創設した新詩社の機関紙「明星」に短歌を発表。鉄幹の女性遍歴は現代なら大問題になるレベルのコンプラ違反ですが、写真でも男前ですものね・・。よほど魅力的だったのでしょう、
1901年晶子上京。晶子の才能を見抜いた鉄幹のプロデュースで「みだれ髪」を刊行。のちに晶子と鉄幹結婚。夫妻は12人の子供を儲けます。
1911年、不振の鉄幹は、晶子の計らいで渡仏。洋行費は森鴎外の手助け。
1912年、鉄幹を追って晶子は敦賀港から船でウラジオストク港、シベリア鉄道でモスクワ経由で渡仏。
滞在した約4ヵ月間でイギリス・オランダ・ベルギー・ドイツ・オーストリアなどを訪れ、マルセイユ港から「平野丸」で帰国。帰国後、晶子は詩作・評論などで成功を収めるが、鉄幹は相変わらず不振で苦しむ。
1915年、鉄幹出馬。落選。
1919年、鉄幹慶応義塾大学文学部教授に就任。それまで鉄幹の収入が当てにできず晶子、孤軍奮闘。
1921年、鉄幹らと共に、女性教育の必要性を説き続けた晶子は日本初の共学を成立させる。
1935年、鉄幹死去。
1940年5月、脳出血で右半身不随になり、1942年1月4日意識不明に。
同年5月29日、65歳。荻窪の自宅で亡くなる。
晶子のなんとパワフルさよ。
名が残る人物は皆、すごいなあと改めて思います。
晩年晶子は全国各地を旅しており、各地に歌碑がありますが、こちらは群馬県みなかみ町にある利根川沿いにある「与謝野晶子歌碑公園」の景色。
1931年、1932年、1934年、鉄幹が亡くなった後の1939年、晶子は群馬県みなかみ町を訪れています。
この公園は、利根川の清流や谷川岳の眺めも良く、大きいアップダウンもなく、水上温泉にでかけたついでの散策にオススメです。
「ポヤッ」としている私は、川の流れを「へーーーっ」と眺めるだけでございます。